象徴的思考の重要性

(過去の記事から転載 この記事は2007/08ころに書かれたものです)


昨日の晩,猫と会話をしていたんだけど,「ちょっとあれ見てみ」って感じで指を指しても,その指を見るばかりで,指の先を見ようともしない.その指が持つ"意味"を理解できないからなんだろう.ヒトは,"指を指せば"その方向を見る.指を指すという行為が,その指の形状が持つ意味を,理解するからだ.指の形状から,その指はある方向を示していて,指そのものに重要性が存在するのではなく,その先にある何かが重要なのであると分かる.
でも,猫にはそれができない.目の前で指を指されても,その指にほたえることがあっても,その指の先を見ることなんてないし,その指の先になにがあるんだろう?と疑問を持つことさえない.もちろん,猫のみならず,ヒト意外のほとんどの生き物は,象徴的思考を為し得ない.
ヒトが,ヒトたる所以は,その高度に発達した知能にあるが,その知能は,その文化にあり,つまるところ言語にある.言語は,象徴的思考無くして為し得ないだろう.ただ,"文字"があったとしても,象徴的な思考が可能であるからこそ,その"文字"に意味を見出すことができる.例えば,『猫』という文字が,黒い線の塊ではなく,"ねこ"という読みの漢字であるというだけではなく,ふわふわとした毛を持つ,至上の生き物であることを表象できるということは,これは,象徴的理解を為し得るからに他ならない.文化の創出には,象徴的理解,象徴的思考が欠かせないだろう.

 そんなわけで,昨日,猫と会話をしていて,象徴的理解の重要性,象徴的思考を為し得るその神秘性についてふと考えてしまったのであった.

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[1] 幼児における語彙習得のメカニズムについて - 粉末@それは風のように