マウスにおいて,選択的にかつ安全に記憶を消去することができた

 特定の記憶を消去することはもはやSFの世界の話ではない.この新しい研究では,任意の記憶のセットを安全かつコントロールされた状態で誘導的にマウスの脳から迅速かつ明確に消すことが可能だということだ.また,記憶の貯蔵メカニズム(長期記憶への移行プロセス)における分子メカニズムを解明することで,この手法は脳細胞を傷つける心配はなく,神経化学的な方法で以って記憶を選択的に消去するらしい.
 「αCaMKII(アルファカルシウム/カルモジュリン依存性プロテインキナーゼII)」というタンパク質は長期記憶生成に重要な関わりがあって,例えば.αCaMKIIをノックアウトしたマウスで実験をした場合,海馬CA1領域でのLTP(Long-term potentiation;シナプス長期増強)が著しく阻害されることが報告されている.海馬CA1やCA3領域は長期記憶形成に重要な部位であり,学習メカニズムに大きく関わっている.これら部位での阻害ということは,長期記憶形成プロセスが抑制されることを意味する.
 今回の研究では,この「αCaMKII」を操作して,記憶想起時におけるαCaMKIIの過剰発現によって想起対象記憶を選択的に削除する*1ということに成功したらしい.ただし,記憶には異なった4つのステージ「学習・強化・格納・想起」があるが,今回の研究においては,どの段階で「記憶の消去」が行われたのかは明らかになっていないとのこと.なんでも,研究者に素早くタンパク質を操作する技術に欠けていたため,各ステージにおける分子メカニズムを分析することは困難だったとのこと.例えば,削除が概して期間中ずーーっと起こったので,プロセスのどの部分が損なわれたのかを言及するのは無理だったらしい.ただ,プロセスのどの段階か・・によっては,例えばPTSDの治療などに利用できる可能性もあれば,体験記憶(嫌な思い出とか)の消去だけであって,それによるトラウマなどは解消されないと言うことも考えられるので,記憶形成プロセスにおけるどの段階で作用しているのかというのは非常に重要なことであり,逆に言えば,現時点ではPTSDなどの治療に使えるかは分からないのではないだろうか.*2

 要約のつもりがすでに長くなって言いたいことを言ってしまった感があるけれど,以下,WIRED VISIONやScienceDaily(元ネタ)の記事を引用しつつ,もう少し詳しく紹介したい.


 「脳から特定の記憶を消去」に成功:タンパク質の操作/マイクロ波等の照射が記憶に影響 - WIRED VISION
 Memories Selectively, Safely Erased In Mice - ScienceDaily

米国と中国の科学者チームは10月23日(米国時間)、記憶分子と呼ばれるタンパク質の一種「αCaMKII」(アルファカルシウム/カルモジュリン依存性プロテインキナーゼII)を操作して、マウスの脳から特定の記憶だけを安全に消去する方法を発見したと発表した。
     「脳から特定の記憶を消去」に成功:タンパク質の操作/マイクロ波等の照射が記憶に影響 - WIRED VISIONより引用

「αCaMKII」に関しては,上述した通りなのだが,「αCaMKII」とはなにか,どう操作したのかということに関して,ScienceDialyの記事には以下のように書いてある.

This time he was examining downstream cascades of the NMDA receptor to learn more about memory formation. An abundant protein found only in the brain, called αCaMKII, was a logical place to look because it's a major signaling molecule for the NMDA receptor. He found that when he over-expressed αCaMKII while a memory was being recalled, that single memory was eliminated.
Receptors such as the NMDA receptor are like front doors to cells, providing an opening for signaling molecules such as calcium. Synapses are the point of communication between two cells, and NMDA receptors are on the receiving end of the message. Like people, neurons change with the signals they receive. "Learning changes the way cells connect to each other," says Dr. Tsien. To form a memory, the NMDA receptor is activated, which results in the insertion of AMPA receptors into those synapses and subsequent strengthening of the synaptic connections among hundreds of thousands of neurons. Scientists believe that αCaMKII plays an important role in the insertion of AMPA receptors into synapses during learning and subsequent strengthening of connections between neurons to create a memory.
     Memories Selectively, Safely Erased In Mice - ScienceDailyより引用

要約:記憶形成についてより詳しく研究するために,NMDA受容体のダウンストリームカスケードを調べていたら,NMDA受容体の主要なシグナル伝達分子である「αCaMKII」は,記憶想起時において過剰発現されることで,その想起された記憶は消去されるということを発見した.NMDA受容体は記憶形成に重要な役割を担っているが,記憶を形成するために,NMDA受容体が活性化されてAMPA受容体の挿入の結果,神経回路網の伝達強化が起こる.そして,このとき「αCaMKⅡ」が重要な役割を担っていて,学習や伝達強化において大きな役割を持つ.
  シナプス伝達の可塑的変化,特に今の場合は長期増強(LTP),において,興奮性のシナプス伝達はAMPA受容体を介するために,この受容体が非常に重要な存在となる.そして,LTPが生起されるためには,NMDA受容体が活性化されCa2+チャネルが開いてCa2+流入することが必要であり,それに伴って,CaMKIIの自己リン酸化(活性化)が必要である.NMDA受容体は, グルタミン酸受容体の一種であり,この受容体(receptor)は, グルタミン酸の結合部位とグリシンに対する結合部位を持つだけでなく, マグネシウム亜鉛などの2価陽イオンとの結合部位も持っている.そして,イオンチャンネル型であると同時に電位依存型チャンネルとしての性質も持つため,膜の脱分極によって電位変化があって,初めてNMDA型受容体のチャネルが開き,Caイオンが流入する.このカルシウムイオンの流入によって,CaMKII(Ca2+/カルモジュリン依存性プロテインキナーゼII)が活性化され,タンパク質のリン酸化を誘起させる.(CREB活性など) その結果,LTPが起こると考えられている.(関連[1])

So Dr. Tsien's team developed a powerful chemical-genetic method that allows him to use a pharmacologic inhibitor to instantly turn αCaMKII off and on in a mouse that he genetically engineered to over express this signaling molecule. That enabled him to study exactly what happened if he threw off the natural balance during the retrieval stage.
     Memories Selectively, Safely Erased In Mice - ScienceDailyより引用

要約:すごくパワフルな遺伝生化学手法を開発した.遺伝子操作によってシグナル伝達分子を過剰発現するマウスで,薬理学的阻害剤(pharmacologic inhibitor)を使ってαCaMKIIを瞬時にオフにするという手法で実験を行った.
(どのような阻害剤か,どのように過剰発現するのか等の詳細は書かれていない(それらに関しては参考文献1.が詳しい))

[ジョージア医科大学と、中国上海にある華東師範大学の共同研究。論文は10月23日付けの『Neuron』に掲載。CaMKIIは、中枢神経系における細胞内Ca2+シグナルの主要な担い手として、記憶・学習を形成する上で必要な分子と考えられている]
     「脳から特定の記憶を消去」に成功:タンパク質の操作/マイクロ波等の照射が記憶に影響 - WIRED VISIONより引用

 CaMKⅡに関しては,上述したので参考にして欲しい.

 論文はScienceDirectなどから読むことが出来るようだ.また,非常に詳しい説明が載っている記事を見つけたので紹介しておく.
 米研究者、マウスの記憶の選択消去に成功 - 駆け出し研究者のひとり言
 

*1:しかも,想起した記憶だけを消去し,他の記憶にはまったく影響しないらしい

*2:現時点では,使えれば良いなあ・・という希望的観測といったところで