クオリアなんて考える必要があるのだろうか

クオリアなんて考える必要があるのだろうかより全文転載(一部改変)

 クオリアというのはいわゆる"精神活動"を表す用語に過ぎない気がする.ある知覚刺激における心理的表象こそがクオリアじゃないのか.いわゆる現象的意識というのは,精神活動によってもたらされるものであって,これを考える場合,つまるところは精神活動は如何にして発現されるかという話じゃないか.んで,ペンローズさんなんかは,波動関数の客観収縮理論(Orch-OR Theory)を提唱してるが,*1これが重要なのは,"システムの複雑さ"であり,"システムの複雑さ"こそが,ゲーデルの不完全性原理のような非論理構造を有する要因であり,それこそが"精神活動"を生むのだと思う.
 クオリア(例えば「赤さ」とかさ)って主観の追究であり,それは典型的な哲学における議論なんだよね.そして,観念の追究は形而上学に他ならないだろう.そんな,形而上学的ないかにも哲学的命題なものを考えなくても,実証主義的に解き得る範囲で(いわゆる科学的検証の範囲で),十分に議論可能な話なんじゃないかなあと思った.
 クオリア存在論的議論としては,クオリアは現在の物理学の範疇に在るものだという物理主義的な主張や,(つまり,クオリアとは擬似問題に過ぎないという考え方)既知の物理量では扱うことが出来ないために,クオリアという概念を提唱し,新しい拡張された物理学として議論しようという立場がある.しかしながら,そもそもそれを議論することに有意味性があるのかという疑問がある.クオリアというハードプログレムはそもそも不可知論的な命題であり,内観を客観的に計測する手段は無く,それを議論したところで,その妥当性は見出せないのではないか.最も,それは消去的唯物論を支持するものではないが.
 "クオリア"と呼ばれる何か,現象的意識と呼ばれる何かは確かに存在する.概念的にそれを捉えるべき用語として,これらが存在するのも分かる.しかし,哲学的ゾンビ(参考[1])という命題を考えたとき,僕は"中国語の部屋"という命題と等価的な議論に過ぎないと感じざるを得ない."中国語の部屋"というのは,チューリングテストの拡張命題として挙げられた思考実験であるが,チューリングテストは現象論的立場であるのに対して,中国語の部屋はその存在定義まで議論するものである.
 以下に,チューリングテスト及び中国語の部屋について簡単に説明すると,対象A(ヒト), 対象B(人工知能を搭載したマシン)があるとき, それらに対してチューリングテストを行ったとする.チューリングテストにて, 質問の全集合に対して, 対象Aと対象Bの答えが等価である場合, この両者の違いを見分けられないことになる.したがって,現象論的に一方に"mind"が存在するとき場合は, 他方にも"mind"が存在するとみなすべきである.しかし, これはあくまで現象論的な議論に過ぎず, チューリングテストにおいては, 人工知能研究者が対象Bの人工知能に対して, "mind"をインプリメントしたかどうかは問題ではなくなる.つまりは, 真の意味での"mind"の存在は確定されないのではないか.これを問題提起したのが,"中国語の部屋"なわけだが,それに対する反論として以下が挙げられる.つまり, ヒトは確かに知性を持っている. しかし, その知能を発現するブラックボックスを紐解けば, 脳内における高度なニューラルネットワーク, 化学物質, 電気信号による複雑な情報処理によって発現されており, それらのメカニズムは完全には解明されていない. ヒトが知性を持つということは疑いようのない事実であるが,しかし, ヒトの知性発現もまた"中国語の部屋"と同じくしてブラックボックスである.
 ヒトが知性を持っていることは自明である.しかしながら,我々が知性を持っているという事実もまた,現象論的な理解でしかあり得ない.神(ヒトの創造者)は我々に知性をインプリメントしたのか,これは不明であり不可知である.*2
 クオリア,知性,いわゆる"mind"に関する議論は,ブラックボックスの中身を議論することと同じであり,これらは不可知論的命題であると思う.ただし,僕の立場としては,これらは必ずしも認知的閉鎖あるいは消去的唯物論的な消極的立場なのではなくて,*3 現段階として,不可知論的であるということではあるわけだが.したがって,現状としては,"mind"に関しての最適解がチューリングテストであるように,それらは現象論的に捉えられるものであると考える.*4
 最後に補足しておくと,"クオリア"について議論することは重要であり有意味だと思う.しかし,それは哲学的所為においてであって,科学的所為におけるものではない……というのが僕の考えである.更に補足(哲学は科学じゃないのか!とか突っ込まれるの回避)しておくと,密接な関係にある両者ですが,科学と哲学は本質的に異なった学問である.科学の研究対象は客観であり,その本質は自然の普遍性を追求し,その客観性をもって普遍的事実を追求することにあるが,対して,哲学の研究対象は(究極的には)主観にある.これは,決して客観化されることの出来ない事象であり,両者は本質的に異なった学問であるということが言える.だからこそ,"科学を信ずる"という表現が如何に愚かしいかという話になるわけですが,それはさておいて.
 クオリアを議論することは重要だとは思うし,クオリアという概念は非常に大事なものではあるけれど,それは脳科学的所為におけるものではなく,専ら哲学的所為において議論されるものであって,哲学的命題であると思う.したがって,ありていに言えば,脳科学者がクオリアを考えるのはどうなのだろうかと思う.

*1:脳内でチューブリンというタンパク質の波動関数が収縮する際にクオリアが発現される

*2:我らが製作者を連れてきて,問いたださない限りは

*3:将来的には,すべての謎は解明されることと信じている

*4:ゾンビもヒトも質問の全集合に対して答えが等価であるならば,それらは同じである